E.スタンレー ・ジョーンズ著
海老沢 宣道 訳
使徒行伝に記されている交わり(コイノニヤ)を、教会に取戻したいとの願いから、今日までに多くのグループ活動が起りました。このコイノニヤは、聖霊の降臨によって生れました。それは階級、人種、年令、性別など全ての垣根をこえて、緊密に編まれた交わり、=霊交であります。コイノニヤが魂であって、そこから体になる教会が成長するのです。それは有機体であって、そこから教会という組織が現われるのです。この霊交は聖霊の降臨と同じく、使徒行伝に言及されています(4:32)。教会は第5章までは言及されていません。コイノニヤのある所に、教会があるのであって、このような交わりのない所には、たとえ組織はあっても、教会はないのであります。
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古今のグループ活動は、コイノニヤを教会に取戻す試みであって、クリスチャン アシュラムもその一つであります。私たちはアシュラムだけがその道であるとか、最善の道であるとは言いません。これは最善の道への道である、とだけ言います。なぜならイエス・キリストだけが道であるからです。「アシュラム」とはサンスクリット語で、アは○○から、シュラムは「勤労」を意味します。つまり、勤労の生活から一時離れて、ある教師(グル)の下に集まり森の道場へ退修することであります。
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現在のクリスチャン アシュラムは、インドのサトタル(七湖)の小さな集りから成長しました。インド人の牧師ユナス ・シンハ、英国の婦人宣教師エセル・ターナーと米国人のE.スタンレー・ジョ―ンズとがサト タルのアシュラム ・ハウスで会合し、アシュラムを始めることにしました。この小さな開始が、世界運動に成長するとは夢にも思いませんでした。
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彼らは交わりを求め、もっと東洋的に表現されたキリスト教を求めていました。キリスト教は世界的普辺的な信仰でありますが、地方色を用いることはあります。しかし地方色をキリスト教と同一視してはなりません。
インド文化からアシュラムを採用するに当って、それは大いに改変されました。インド・アシュラムにはグル(頭首)があり、その周囲に集まって展開されるのです。
クリスチャン ・アシュラムもグルを持っていますが、それは人間的なグルではありません。宗教活動の中心になれるほど善良で賢明な人間はいないからです。その責任の重荷を負い得る方は、ただ主イエスのみであります。従ってクリスチャン ・アシュラムは「イエス・キリストこそアシュラムのグルである」と言うのです。
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クリスチャンは共通に一つのもの、イエス・キリストを持っています。キリストに属する全ての者は、キリストに属する全ての者に属します。私たちは多くの他のことではちがいがあっても、キリストを中心にして一つになり得るのです。そこで、アシュラムのモットーの一つは、「私たちはここで交わりに入る。時にはちがいを認めるが、常に愛することを決意し、仕えるために一致する」ことです。
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キリスト教信仰の中心はキリストであり、キリスト教はキリストであります。しかしその中心の中心は、「言が肉体となられた」ことであります。他の諸宗教においては、言は言、即ち哲学や道徳主義になります。しかしキリスト教は言が肉体となり、イデアが事実となるのです。
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私たちはグループとして、御国の言を肉体化しなければなりません。従ってただ解答を見出そうとするのでなく、私たちが答になろうとし、神の国のひな型(縮図)となり、新秩序のカメオ(浮彫)となることであります。それを普辺化するとき、答を持つのであります。勿論不完全な人間の集りですから不完全ではあるが、ある真実な意味において、御国は実現し、言は肉体となったのであります。
協議会では言の質問に、言による答が与えられます。閉会に当っては決議文が作られます。これは言が言になることであります。
研修会においては、いくつかの講話の光によって、霊的生命を成長させます。しかしそこでは少しもグループに対して答となるような試みがなされません。アシュラムは、協議会でも研修会でもないのです。それは聖霊の啓導の下に、ある真実の意味で、神の国となろうとする試みであります。
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神の国とは、神の贖罪愛が私たちに侵入することでありますが、私たちはともすれば垣根を作っています。アシュラムにおいては、それらの垣根を取こわす努力をするのです。
(1) 教派的垣根を取りはずします。そこで前進してイエス・キリストの人格を中心とした一体になることができます。
(2) 年令的垣根を取り去ります。この交わりには老若男女を迎えます。何れもアシュラムの不可欠な部分であり、皆がアシュラムを愛します。
(3) 人種、階級の垣根を取り去ります。神の国は階級なき社会であり、人種的には何の色もありません。私たちは他人を人種や階級によって見ません。キリストがその人のためにも死んで下さった人として見ます。
(4) 肩書の有無を取り去ります。アシュラムにおいては主教、博士、教授、裁判長などはなく、ただスタンレー兄弟、メリー姉妹であります。
(5) 労働者や資本家の区別を取り去ります(勤労者と管理者の別を見ません)。
(6) 更に真実な垣根は、恨み、恐怖、心配、思煩い、自己中心、罪責、虚無感など、内的な垣根であります。これらを全て取り去って貰います。
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I そこで、開会の最初に「開心の時」を持つのです。
一同に質問します。(ここに来た理由)(何を望むか)(何を必要としているか)を。
第三の質問は最も大切であります。私たちの全ては、何かを必要としているからです。私たちの全ては成長途上のクリスチャンであります。アシュラムにおいては未完成のもののために働く達成された人々というものはいません。これはグループの中に緊張を生じます。従ってアシュラムでは神が私たち一同のために働いて下さるという態度をとります。
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Ⅱ 最後の日に「充満の時」を持ちます。
その時までは実際に誰も何が起りつつあるかを知りません。全体がいつの間にか贖罪的になってくるのです。多くの問題は解決されないでしょうが、全体との関係において解消してゆくのです。個人は愛することを知り、愛を受け入れるようになります。それが普通には解決であります。95%は晴れやかになり、掃き出し、造り変えられます。これは最も大切な時であり、その変化は実にすばらしいものであります。
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Ⅲ 「連鎖 (徹夜 )祈祷」
アシュラムの期間中、1時間毎に祈りの連鎖を続行します。これはアシュラムの動脈であります。ある人はどうして1時間も長く祈ることができるかといいますが、できるのです。祈祷室にはノートが用意されていて、互に願いを記入し、互いのために祈るのです。
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Ⅳ 「祈りの細胞」
アシュラムにおいては10人単位の細胞を作り、共に祈り、共に分ち合います。祈りについて論じるのでなく、友の必要のために祈るのです。勝利と平安を与えられた者は、その恵みを分ち合い(シェアリング)をいたします。これはやがて帰宅して、彼ら自身の祈りのグループを作る訓練となります。
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V 1日に1度「ファミリー・ミーティング」を持つ
何でも意見や希望を述べ合い、相談をする時を持ちます。ここで話されたことは、他の所で話さないようにいたします。
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Ⅵ 「癒しの時」
「癒しについての話」と「癒しの祈り」を一夜に守ります。但し肉の癒しを中心とはしません。それは間接的に及ぶものであります。まず霊的に健康になることを祈ります。その結果多くの病いも癒されるのです。直接的よりは間接的な癒しを更に取入れたいのです
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Ⅶ 「沈黙の時」
午後10時から朝6時40分までとします。
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Ⅷ 「静聴の時」
朝の「静聴の時」には、聖書と信仰書を黙読します。後で何を発見したかを分ち合います。ここでは一同が教師となり、生徒となるのです。最後の日の朝に聖餐式を守るのは、よいことであります。
アシュラムはキリスト中心であり、教会中心であります。人々を教会からつれ出して、教会への愛と忠誠を吸い取ることはいたしません。これはよりよい人物にすることにより、よりよい牧師、よりよい役員と教会員を作って送り返し、教会生活にコイノニヤを浸透させる働きをしようとするものであります。このため「小アシュラム」を各教会において守るようにおすすめします。
モデル時間表(一例)
6:00 起床
6:40 朝の静聴
7:30 朝食
8:30 聖書の時
9:30 労働奉仕
10:30 福音の時
12:00 昼食
1:30 ファミリーアワーとリクリエーション
3:00 立証の時
5:30 夕食
7:00 福音の時
9:00 祈りの細胞
10:00 沈黙の時
(翌朝6:40まで)
アシュラム五大原則
「アシュラムの原理と実際」海老沢 宣道著より抜粋
青梅教会牧師 有馬 歳弘
キリストへの明け渡しと服従
まず、アシュラムの目的は何かと言えば私たちを真にキリスト信者に作り変えることにある。キリストを信じているには違いないが、単なる信者に止まり、真の弟子になっていないという反省が出発点である。
主は私たちに「神の国は近づいた。悔改めて福音を信ぜよ」と言われる。信仰の前に悔改めが求められているのだが、多くの場合に悔改めが不徹底のまま信者になってはいないか。結果はその信仰も頼りないものに終る危険がある。
悔改めとは古い自我を全く捨て去ってイエスを主と仰ぎ服従し、その支配下に新生することである。主はニコデモに向って「新生なくして神の国なし」と言われた。故にアシュラムでは開会に当り「開心の時」を持って各自の真の必要をまず告白することになっている。
また主は「神を信じ、私を信ぜよ」と言われると共に「私に従え」と言われる。信じるだけでなく従う者(弟子)となることを求めておられる。
つまりアシュラムは使徒行伝の初めに記録されている原始教会の生活に帰ることと、或はそれを現代に再体験することによって、キリストに全く自己を明渡した弟子を造り、真の教会を建てる運動であると言えよう。
「イエスは主である」という告白を文字通りに生きる時、聖霊は豊かに降り、「言は肉体となって、我らのうちに宿られる」のである。
そこではこの世の一切の人種、階級、年令、男女、教派、肩書、偏見の垣根が不要となるのは当然で「主にある兄弟姉妹」という語が単なる挨拶でなく実質を伴ってくる。聖霊の交わり(コイノニヤ)が一同の体験となり、主にある幸福と歓喜に満たされるのである。
敵に城を明渡すというのは、破壊したり焼き払ったりせずに、そのまま渡すことである。私たちもこのまま自己一切を主イエスに「無条件降服」して明け渡し、この城主は「もはや我にあらず、キリストわがうちにありて支配し給う」と言う信仰に至る時、「イエスは主である」との告白が真実となるのではないか。
御言葉への静聴と立証
アシュラムは祈祷生活の徹底を期するもので、いわば「祈りの道場」である。祈りは神との交わり、主イエスとの交わりであり、会話である。我らの願いと神のみ言を聴くことの一致によって初めて祈りは成立する。そこでアシュラムには静聴の時が守られる。これは何よりも聖書を通して語りかけられる神のみ前に、自らを明渡し、サムエルが祈ったように、「しもべは聞きます。主よ、お話し下さい」と、まず主の御言を頂き、不信と不義とを悔いて、新しい決断を与えられ、御言に応答するのである。
御言を静聴するのであるから、聖書講演とか釈義とかで神学者や牧師を煩わす必要がない。唯一の主イエスを中心に集まり、御声に聴従する。
従って、細胞においても全体集会においても、特定個人の知識や経験から、他人を教える態度は取らず、お互いに示された御言を分ち合い、共に兄弟姉妹の必要を聞き祈りの助け合いをする。密室において個人のアシュラムを守る時は毎日の祈りの題目とそれに示された御言をノートしておくのがよい。二人三人の細胞においては紙片にそれを書いて互いに交換して祈ってもらうのである。この静聴の経験を身につけて帰ると、家庭も教会も変ってくるにちがいない。
アシュラムにおいても証しの時が持たれる。復活の主は御弟子たちに「聖霊がくだる時、あなたがたは力を受けて、わたしの証人となる」と言われた。ペテロを初め使徒たちはその通り復活の証人として立った。アシュラムの証しは、主の聖前に静聴し、御言によって「主があなたにどんなに大きなことをして下さったか、語り聞かせなさい」と言われたことを実行するのである。故に長い経験のある信徒ばかりでなく、初心者も1人残らず、そのアシュラムで受けた恵みを証しすることができる。こうして養われた信徒は教会の宝である。
聖霊の導きと充満
アシュラムは「イエスは主である」との告白を生活化するために、使徒時代の原始教会に学び主のみもとに共に集まり、ひたすら御言に聞き、信徒の交わり(コイノニヤ)をなし、共に恵みを分ち合い、祈をする集いである。従て、アシュラムは最後の、「充満の時」になるまでもなく、最初の「開心の時」から既に聖霊の導きに依存するものである。アシュラムの成否は聖霊の浸透の有無にかかっていると言っても過言ではない。「開心の時」に真剣に求めた者に、天の父が「充満の時」に聖霊を下さらないことがあろうか。
朝の静聴、祈の細胞、福音(恵み)の時、労作、ファミリー、証しの時、沈黙の時、医しの時、密室の祈り、など全てのプログラムを通じて、聖霊は一同を静かに導きつつ造りかえて行く。誰にどんな変化が起っているかは知らないが、最後の「充満の時」までには必ず主イエスの贖罪愛が一同の心に植えつけられ、育ってくる。我欲に対する聖霊の勝利を体験して、溢れる喜びと感謝に満たされてくる。
「充満の時」を英語では「オーバーフローイング」と言う。満ちるだけでなく、溢れ出ることである。「信じる者はその腹から生ける水が川となって流れ出る」と主は言われた。ここで一同は今回のアシュラムで受けた恵み、自分に起った変化、新しい決断に対する感謝を主イエスの御前に告白せずにはおれなくなる。
そしてむしろ各自の受けた恵み、決断が更に助け主なる御霊の導きによって、翌日からの家庭生活、教会生活の中で実行されるよう、お互いに心を尽して祈り合う。つまり「充満の時」で終るのでなく、それから主の御霊に服従した真実の信仰生活へと再出発する時である。アシュラムに対する一般の理解はまだ不十分だが、これはあくまでも教会本来の使命に、よりよく仕える主の弟子として送り返す働きであることを、ぜひ参加して認識されたい。更にこれは個人体験に止まらない。聖霊を受けた以上、地の果まで、主の証人として前進する信徒を産み出す。
神の国の体験と献身
第4の原則を述べるに当り、しきりに思い起こされることは今日まで多くのアシュラムにおいて強調された体験は、第3の原則までの個人体験であったことである。聖霊は個人的にも与えられ、導かれ、満されるが、ペンテコステは心を一つにして祈った群に与えられた集団体験であった。コイノニヤ(霊交)は個人対個人の交わりでなく、集団的交わりの中に与えられるものである。
キリストの福音は個人を救済するための十字架の贖罪愛であると同時に、神の国の到来を告げる喜びの音信である。キリスト教信仰の中心はキリスト信仰であって、哲学思想や道徳訓ではない。
キリストは「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」お方である。アシュラムは純粋に霊的であると同時に、信仰生活の具体的体験を重視する理由がある。即ち福音の言が私たちの集団的交わりの中に具体化すること、既に到来せる「神の国」を受け入れ、それに入国する許可を受けとることである。
主は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔改めて福音を信ぜよ」と言われる。神の国の市民になるには、徹底した悔改めが必要である。幼児の如くになり、水と霊による新生を経て神の国に入ることが許される。神の国はいつ来るのか。見える形でなく、「神の指によって悪霊が追放された所に既に来ている」「神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ」と主は答えられる。
キリストの贖罪愛が群全体の中に浸透して、全ての相異を超えて、互に許し合い主イエスの支配下に入る時、そこに神の国は実現し始める。
神の国は、イエスを主と信じるだけでなく、文字通り主と仰いで服従する群の中に「義と平和と聖霊による喜び」が体験されるところである。死後にではなく現世において既に神の国を体験されるとは、何たる幸いであろう。
国家に忠実な公僕が必要であるように、神の国のために献身する者が求められている。すでに「開心の時」に主イエスへの明渡しと服従のできる人間になりたいとニードを告白した者は、アシュラムを通じて注がれる主の恵みを感じ招きの御声が聞えてくる時、「主よ我ここに在り、我を遣わしたまえ」と応答して献身するに違いない。キリストと教会のために、キリストの苦しみのなお足りない所を身を以て補ったパウロに続く者とせられたい。
教会への奉仕と伝道
教会とは何か。キリストを信じる者同志の人間的な合意による組織であるかのように考えている人が可成り多いようだが、それは根本的な誤りである。なぜなら使徒行伝に記されているように主イエスの御霊が一同を一つにした時、つまりコイノニヤが一同の体験となった時に発生した、聖霊による共同体であるからである。主イエスがペテロの信仰告白をよみせられ、その岩の上にわが教会を建てようと預言されたことが実現したのである。従て教会の主はキリストであり、教会はそのからだである。私たちはキリストの霊的な聖なる公同の「教会」となるべきではないか。
ただ然し欠点多い人間が教会の主であるキリストの主権を侵して、人間的に改悪してきたことは、歴史的な事実であって悲しむべき人間の罪である。
そこで啓示を受けた人々が悔改めて、この失われたキリスト中心の霊交を教会に復活したいとの祈りの運動が起った。アシュラムはその試みの一つである。
アシュラムによって心を開かれ、キリストへの明け渡しをなし得た者は、主に仕えるのと同時に、教会を挙げて主に仕えさせるはずである。イエスを主と仰ぐ者はそのからだの一部(手足など)になっているはずである。言が肉体となられたように、信仰は霊的共同体となって御栄光を顕すものとなるのである。
「聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、地の果まで私の証人となるであろう」と主が言われたようにペンテコステの体験をした者は復活の証人としていかなる困難にもめげず、喜んで力強く伝道のわざに参加して来たのであり、また参加して行くであろう。
教会の使命は礼拝と礼典、宣教と愛のわざ、再臨待望(神の国)の三つにまとめることができると思う。人間は精神的(宗教的)救いを究極において求めていることを知る時、私たちは真の救主とその福音を伝えることこそ、彼らに対する真の愛のわざに参与していることになるのではないか。即ち伝道に献身的奉仕をすることが、主に仕え「教会に仕える者になる」(コロサイ1・25)のである。
そして主イエスの最初の御教えは「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)であり、最後のご命令は「あなたがたは行って、全ての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:19-20)を覚えて励みたい。
アシュラムの守り方
横山義孝編
アシュラムの起源とクリスチャン・アシュラムのグル(指導者)
アシュラムの起源は印度です。サンスクリット語の、アは「~から」シュラムは「労働」を意味します。日常生活からはなれて、自然の中の道場で指導者(グル=教師)を中心に修養の時をもつのです。インドでは詩人タゴールの下に人生哲学を学ぶ人々によるタゴール・アシュラム、無抵抗主義者ガンジーの下には平和と自由をもとめる人々によるガンジー・アシュラムがありました。クリスチャン・アシュラムはE.スタンレー・ジョ―ンズ師がヒマラヤ山麓のサトタルで、英国婦人宣教師エセル・ターナーと印度人牧師ユナス・シンハの3人でアシュラムを守ったことから始まりました。
クリスチャン・アシュラムは人間的なグル(指導者)を持ちません。その必要がないのです。何故なら「イエスは主である」と信じる者の集いだからです。イエス・キリストが唯一の指導者です。ここでは、教職、信徒の別なく兄弟姉妹の交わりの中で互に、愛し仕え励まし合うのです。主イエスによって罪赦された者として聖霊の賜う一致を経験する交わり(コイノニヤ)です。(アシュラムのプログラム中で具体的な指導助言にあたる教師を一般に「助言者」といいます)
アシュラムの準備と推進委員
アシュラムを計画し、プログラムを推進していくためには、参加者一同の心が主イエスに自身の導きのもとに入れるように補佐する推進役が必要です。地区の委員長或はアシュラムを計画、準備する代表世話人にはこの役目がもとめられます。プログラムでの司会者、奨励担当者、助言者等も祈りをもってこの準備に携わることが期待されます。
参加者には前もって十分な心の準備ができるように「アシュラムとは何か」を解説したものとか、プログラムを送り、1ヶ月位前から開催予定のアシュラムのための祈りのスケジュールに参加してもらうことが必要です。
参加者は開会前30分位の余裕をもって会場に到着し受付その他の手続きをすませ、心を静めて開会礼拝を待つように心がけ、特別の事情のない限り遅刻、早退せず、全期間参加が望ましいです。
推進委員は各プログラムの運び方について前もって十分な打ち合わせをしておくことだ大切です。連合体主催の場合は、準備委員全員がその会の趣旨を理解し、祈りの目標を把握しておかないと、途中で他の司会者やプログラム担当者と運び方について異なった意見等が出てきて全体の霊的調和を妨げる危険があります。
常に新しい参加者がある事を想定して、アシュラムの精神、意図等を説明するオリエンテイションの時を持つ事はよいことです。アシュラムで説かれ勧められる「己をすてる」こと、「明け渡す」こと、「御言葉に聴く」ことその他一切は聖書が語っている真理です。アシュラムではその御言葉を実際に体験する処に感謝と喜びを体験するのです。
開会礼拝
参加者一同が時間前に集い、静まって開会を待つようにします。オルガニストが霊的な讃美歌を静かにいのりを込めて奏してくださることが期待されます。メッセージは委員会が用意した主題と聖句について、担当者が取り次ぐもので、それによって、今回のアシュラム全体の霊的基調が一同に明らかにされます。
オリエンテイション
(アシュラムの性格・精神、趣旨等の説明)
次にオリエンテイションの時を持ちます。担当者によってアシュラムの退修会としての性格につき、説教者中心の霊的聖会や、講師の講義を中心とした研究協議会ではなく、キリストを中心に御言葉を聴き、祈りの交わりを体験して、霊的に清められ、今後の日常生活、教会生活を喜びと信仰に満ちて進めうる者となる集会である事を説明します。私たちはそれぞれ違った背景からきていますが、その相違にも拘わらずイエスを主とする交わりに入ることが出来のであり、そこに喜びが待っていることを伝えます。その際全員がこのアシュラムの積極的な参加者であるように、所謂傍観者が1人もいないように期待すると勧めます。「キリストに属する全ての者は、キリストに属する全ての者に属する」を実感することが出来るように。
開心の時
アシュラムはこの開心(全体集会での)から始まります。アシュラムの全体を貫く基本的お信仰がここにあります。すなわち主に向かって自らの全てを明け渡(サレンダー)した態度です。まず不信仰を自覚し、主のお助けを必要としている自分を認めることです。ヤコブ5章16節の御言葉に従い、各自正直に自分のニード(必要・自分の魂において今求めていること)を神と人の前で述べるのです。自分のことを棚上げして、心に何らかの垣根をめぐらしていては、主の恵みも、聖霊の注ぎをも受けることは出来ません。格好の良いことを述べるのでなく、真実、ありのままの魂の願いを述べるのです。この開心の時に徹底的なキリストへの明け渡しがなされることは、アシュラム全体にとって最も大切な出発点です。
この告白において、私たちは、罪を贖い、赦し、救うためにきて下さったイエスを救い主と信じる信仰が明確にされ、私たちみんなが主の助けを必要とする同志であることが確認されるのです。そこに主にある真実の交わりが生まれ神の愛による癒しが起こるのです。告白はあまりに具体的に長々と言う必要はありません。しかし、アーメンたる心で、真実を分かち合うのです。簡潔になるべく多くの人が発言するようにします。
祈りの細胞
次に参加者は10名ぐらいずつ小グループに分かれて「祈りの細胞」の時を持ちます。アシュラムは研修会とか、協議会ではないことを既に申し上げました。では何をするのでしょうか。聖書に聴き、祈りに徹する生活を始めるのです。「信心のために自分を鍛えなさい―信心はこの世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となる。」(Ⅰテモテ4:7~8)つまり敬虔の修練を積むことです。従って、ここで祈りについて講義を聞いたり、話し合ったりするのではありません。ここでもお互いのニード(全体集会では話せなかったこと)を述べ合い、そのために心を合わせて祈るのです。もし祈りについて論ずるなら、言は言葉で終ります。共に祈るなら、言は肉体となるのです。
座長は最初に、神のご臨在を求めて祈り、次いで順次ニード或は祈りの課題を述べて、その人のために隣の人が祈るように指示してください。期間中2~3回このような時間がある場合は最後の充満の時を待たずに勝利と平安を与えられるでしょう。そこでその恵みを分かち合ってください。或は最後の充満の時にその主の御業について証しをなさって下さると良いでしょう。この主の恵みが、同志の集まりから兄弟姉妹の交わりへと喜びを豊かにします。
連鎖の祈り
アシュラムには連鎖祈祷の時間があります。1日のプログラムが終わった午後10時から翌朝午前7時まで、1時間毎担当して、祈祷室で祈るのです。アシュラムが祈りの徹底であることの象徴といえましょう。委員はあらかじめ「祈りの時間表」を掲示して、夜の沈黙の時間を1時間ごとに区切り、参加者一同が自由に自分の担当したい時間帯を選び、氏名を記入し祈祷室での祈りを持つように勧めます。祈祷室にはノートを用意しておきます。この連鎖の祈りが、アシュラムの動脈です。ある人は、どうして1時間も長く祈れるのかと思いますが、できるのです。ここでは聖書は短く読み、瞑想、静聴、祈りを繰り返すことが望ましい。用意されたノートにはお互いのニードを記入し、主より受けたみ言葉や、悟りを与えられた真理、主のみ旨、兄弟姉妹のために祈ったことなども書き残します。たとえ自分が担当した時間がすんでも次の人が来るまではその部屋に留まって祈り続けます。夜半に寝室を出入りする時、足音を立てないよう極力注意し、他人の休息を妨げないようにします。
アシュラムは終始、世間話しや、無駄話はさけます(Ⅱテモテ2:16)。特に連鎖祈祷のはじまる午後10時から翌朝午前7時までは、「沈黙の時」となります。もし廊下などで人と出会う時は3本指(「イエスは主である」Ⅰコリント12:3)を掲げ、笑顔で挨拶しあいます。
朝の静聴
午前7時前後から「静聴の時」を守ります。沈黙の続くなかで聖書を黙読します。聖書の箇所は各自示されたところでも良いのですが、共に集まるアシュラムでは、予め提示された同じ章節を共に黙想し、祈り、示された節(聖句)を心に留めます。聖書は棒読みでなく、深く繰り返し精読します。
聖書を通して主のみ声を聞き、何を為すべきか、どうあるべきかを明確に聞き取ることが大切です。そのことをノートに書き留めておくことは反省のために有効です。「主よ、お話しください。僕は聞いています。」と謙虚にひれ伏しすべてを明け渡す時、必ず主は語り掛けてくださいます。
主イエスは、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6)と言われました。ある先輩の牧師が、朝の15分があなたを変える、と言われました。主イエスにならって「朝早くまだ暗い内に、イエスは起きて、人里離れた所へ行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)ように、祈りの時を持つのが「静聴の時」です。祈りは自分の願いを申し上げることだけではなく、自分に対する主の御心を伺うという大切な要素が含まれています。
アシュラムの「静聴の時」は司会者の指示に従い提示された御言葉を一同でしばらく黙読し、そのあと示された聖句と、受けた啓示との分かち合いの時をもちます。参加者がそれぞれ心に留まった聖句、或は恵みを分かち合うのです。この朝のひと時は相互に生徒になり、教師ともなる分かち合いの時になります。静聴はアシュラムの生命線であり、全日程を貫く霊的基調でもあります。厳格に守られることが期待されます。
アシュラムの挨拶
連鎖祈祷が夜を徹して捧げられ朝を迎えた時、私たちは、アシュラムの3本指の挨拶をいたします。右手の指の内、中の3本(人差指、中指、薬指)を立て外側に向けて(手のひらは内側にし)掲げ、リーダーの音頭に合わせて「イエスは主である」と一同で唱和します。これはキリスト教会の最古の信仰告白(Ⅰコリント12:3)です。この告白を個人としても、参加者全体としても声を大にして確認するのです。私たちはこの挨拶が全世界のクリスチャンのものとなることを祈っています。
尚この挨拶は朝の集会に限らず、同志が顔を合わせた時はいつでも交わすのです。但し夜間遅くや、沈黙の時などは声を出さず、お互いの目と目を合わせて心の中で「イエスは主である」と唱えます。「祈りの細胞」や殊に最後の「充満の時」には一斉に唱えるようにします(ロマ10:13)。
朝「静聴の時」を終了した時は今一つの挨拶をします。リーダーがまず、片手を高く挙げて「イエスは甦られた」と唱えると、一同も片手を高く挙げて「イエスは実によみがえられた」と応答します。3本指の挨拶を先にして、続いてご復活の挨拶をするのも良いでしょう。
福音の時(聖書の時)
この時間は主として午前の適当な時、祈りの細胞、充満の時の前に助言者によって聖書のメッセージが取り次がれるのです。魂が霊的に整えられていますから、御言葉の真理が、海綿に水が吸い込むように魂に豊かな霊の恵みとして受け止められるのです。メッセンジャーはあくまでも文献学的な講義をするのでなく、聖書本文の霊解をしていただきます。その時間は1時間以内が良いでしょう。
ファミリーアワー
2泊3日の日程でアシュラムが持たれる場合には、第2日の午後ファミリーアワーの時を参加者全員によって持ちます。委員長あるいは適当な人が司会役となって、一同の親交の時として守ります。アシュラムでは参加者全員が一つの神の家族になるのです。
この時には、今回のアシュラムについての意見や希望を述べ合い、該当地区の会計決算や予算その他の年間計画等について報告、審議など事務的な事項を取扱います。また「労作の時」(別項)の指揮者としての「パロ王」と「パロ女王」とを参加者の中から選任して、戴冠式を行うこともあります。また、次年度のために地区委員を改選したり、この働きが継続、前進するために、規約を確認してアシュラムの維持会員を募集する場合もあります。また、時間を見て参加者の全体また祈りの細胞ごとの記念写真を撮ることも良いでしょう。このように全員の参加協力を得ることによって、一同がアシュラムのお客様でなく、自分も「神の家族の一員」であることの意識が明確にされていきます。
アシュラムの歌(海老沢宣道 作詞)
アシュラムは堅苦しい集会ではなく、楽しい交わりであり、救われた喜びを声たからかに歌う集いですから、讃美の時をもって大いに歌います。
以下に日本アシュラムの歌、食前の歌、労作の歌を記しましたが讃美歌や聖歌にもアシュラムの精神を高揚するものが多くありますので、適当なものを選んでください。
日本アシュラムの歌 (海老沢宣道)
(1)主イエスよ われらみ前につどい
この世の思い 我欲もすべて
明け渡しつつ ひたすら祈る
あゝアシュラムの 開心の時
(2)主イエスよ われらみ前に伏して
罪を悔いつつ 求むる胸に
ささやきたまえ きよき御声を
あゝアシュラムの 静聴の問
(3)主は聖霊の 油を注ぎ
愛のほのおは 燃え上がりたり
いざハレルヤの うたをささげん
あゝアシュラムの 充満の時
(4)「イエスは主なり」わが身もたまも
いま主のものと きよめられたり
いざかんしゃもて 仕えまつらん
あゝアシュラムの 献身の時
<讃美歌273 B曲に合わせて歌う>
労作の歌(E.スタンレー・ジョーンズ 作詞)(讃美歌380番の曲で)
つちとのこもて 労せし主よ
手足に知恵とこころをそえ
働くこの日 主よ みちをぞ
学ばせたまえ 友と共に
食前の歌(E.スタンレー・ジョーンズ 作詞)(「モミの木」の曲で)
日々のかてそえて 限りなきめぐみ
みちびきを感謝し われらいま祈る
平和と愛との 御国のなるため
こころに ことばに わざにぞいそしまん
讃美と証しの時
2日目の夜、讃美と証しの時をもちます。讃美は神の家族に相応しいものです。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主にむかって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5:19)とあります。参加者有志の聖歌隊による心からのハーモニーはすばらしいものです。更に祈りの細胞その他の交わりの中で確認された様々な恵みを、特に選んで証しの時を持つ事によって、喜びと感謝が家族によって共有され、全体の交わりが更に豊かにされます。
労作の時
「労作の時」を、期間中の1日の昼食の前後に置きます。この時間は参加者一同が境遇や社会的地位を忘れて、兄弟姉妹であることを体験するために行われる一つの方法です。これによって教会や家庭に帰ってからも、実際に手足を動かして奉仕する人間となるためでもあり、アシュラムの会場内外の清掃や片づけをします。また目下援助や慰問を必要としている近隣の施設や海外の伝道や救済事業の応援計画などを立てて実行に移すことも考えられます。
この労作の時間の指揮者として「ファミリーアワー」で前もって男子1名をパロ王、女子1名をパロ女王として選任しておきます。戴冠式にあたって委員長は、英国の貴族たちが国王を選任した時の言葉に従い次のようにのべます。「今あなたと同様に善人である私たちは、私たち以上には善人でないあなた方に告げる。私たちはあなたを私たちの自由と法律とを守り、私たち と共に働くために備えられた支配者として選ぶ。故にもしそのように働く用意がなければあなたはパロ王(女王)ではない。」そして跪かせ用意した紙製の王冠を彼(彼女)に冠せる。一同拍手。いささか余興的ですが和やかな空気がかもしだされます。
パロ王は一同に「労作の歌」を歌ってもらってから、前もって委員長たちと打ち合わせた計画にしたがって、労作をはじめます。
癒しの時
この時間に「癒しの時」を設け、最長老か他のリーダーによって肉体、精神、霊性の癒しのため按手の祈りをします。主イエスが癒し主であられること、私たちの諸々の病気や痛みを今日も癒して下さることを御言葉のメッセージによって信じて祈ります(ヤコブ5:13~17)。全参加者もこの祈りに心をあわせます。賜物のあるなし、あるいは結果的に癒しがなされるか否かは問題ではありません。癒して下さるのは主ですから、「信仰に基づく祈り」が献げられることが必要です。祈りのあとも、主のみ業を信じ続けることです。
充満の時・献身奉仕の時
アシュラムは最後に「充満の時」をもって全プログラムを終了します。
今まで何日かの間、最初の「開心の時」から、主の聖霊は豊かに私たちに満ちてきましたが、この時は聖霊の注ぎを1人1人がその魂に満ち溢れるばかりに受けて、喜びと感謝の時となります。全体が贖罪的となり、聖別され、全ての問題は解消するか、解決されていきます。キリストの愛が各自に充満して、主が愛されたように互に愛し合う者に変えられている自分を発見します。開心の時に告白したニードは応えられ、今や信仰による勝利を語ることができます。聖霊充満の経験はまさに初代教会のコイノニヤ(交わり)の原型であり、神の国のひな形です。
晩祷、聖餐式、閉会(この項は自由選択)
(1) 晩祷
1日の全てのプログラムが終わった時、夜の10時から翌朝の「静聴」がすむまでの間を「沈黙の時」としてすごします。その前に全体か、細胞で晩祷をまもります。司会者はその日の恵みを神に感謝してから、沈黙の祈りと、連鎖の祈りが始まることを宣言し、祈りの時を持ち、3本指で「イエスは主である」と一同が唱和して各自の部屋にかえります。
(2) 聖餐式
いよいよ最後の日の朝になりますと、一同は霊的に主にあって一つになったことを知るにいたります。それで朝6時半か7時から沈黙の内に集まって、予め選任された牧師によって聖餐式を守ります。これは、私たちのために十字架に懸り、肉を裂き、血をながして下さった主イエスを覚え、罪の赦しの恵みを信仰によって確認させて頂く、尊い時となります。配餐者から頂いたパンとブドウ汁を一同が同時に頂きます。その後暫く黙想してから朝の食事に向かいます。
(3) 閉会礼拝
参加者全員が手を繋いで「親交の輪」を作り、讃美を歌い、助言者が「私を強くしてくださる主によって、私はどんなことでもできる」等適当な聖言による励ましと感謝の言葉述べ、共に祈ります。又三本指を掲げて「イエスは主である」「イエスは実に甦られた」を3回唱和。或はインドのサトタル・アシュラムの標語「残りなく主に献げよう。この霊交は破れる時がない」と一同で唱え、讃美歌Ⅰ編403等を斉唱して閉会とします。
但し以上3項目は必ずしも明記せず、プログラムの進行状況によって取捨、選択することができます。アシュラムは各個人の信仰を充実することだけが目的ではありません。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、・・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)と主はおおせられました。初代の信徒たちは、教会への奉仕と伝道のために献身して派遣されたのです。アシュラムの兄弟姉妹たちも同様に聖霊の満たしをうけたならば、自己満足や自己陶酔、或は少数の仲間だけの交わりを楽しんで暮らすことに留まっていることはできません。どんなに困難な事情があったとしても、所属する教会に帰り、牧師を助け、伝道と奉仕の業に献身しましょう。
1日アシュラムの守り方
1日アシュラムは、教会や共同体の中に、いくつかの根本的な必要条件を満たすための、再生と変革を与える、恵みの器となり得るものであります。それは各個教会内の霊的な活力、また共同体の霊的生活を深めようとするもので、教会を革新する一方法として活用されます。
1日アシュラムは、しばしば牧師の退修、信徒の退修のために奉仕をしています。1日アシュラムは単に、この世との接触から心につみ重なっている精神的なガラクタを捨て去る以上の大きな機能を持っています。主イエスが「あなたがたは力を受けるであろう」と使徒行伝1章8節に約束された驚くべき神の力を、われわれに授与されることを意味しています。
1日アシュラムのリーダーは、そのアシュラムの開かれる教会の牧師が当ることができます。他教会から1人か2人の協力者を招いて話してもらうこともできます。名士の話を加えることは人々をひきつけるでしょうが、そのような人物をいつも迎えることはできないし、また必ずしも必要ではありません。その土地の人々がよいメッセージを取次ぐこと。
◎ 開心の時について(リーダーのために)
リーダーはこの時にまず、アシュラムの意味と各自がどのようにしてその中から霊感を受ける備えをなすべきかを、概略話すべきであります。その話の中には下記の項目を含めることが大切です。
(1)一つの道
アシュラムは真の道への一つの道です。これは全世界の多くのクリスチャンたちとの交わりにおいて、スタンレー・ジョーンズの偉大なる心と宣教の聖務の中に形成され、凝結した独得のものであります。
(2)真の道へ向かう
これは一つの道でありますから、他の方法を排除するものではありません。他の運動とこれ自身との比較をしようとはいたしません。アシュラムとしての明白な特色を持ちながら、真の道へ向って、他の方法と共に協力するものです。
(3)二大指導原理
a イエス・キリストにおいて言は肉体となったことの確認。
b 私たちの唯一の信条は、「イエスは主である」であります。
(4)心の垣根を取り除く
私たちは愛のみ国が私たちの中に浸透することができる事実を受け入れます。その目的のために私たちを分け隔てている表面的な垣根、つまり、人種、階級、国籍、教派、労働者と資本家、学生と教授、老人と青年の間の垣根を取り除きます。
さらに私たちは「開心の時」に心の内面にある垣根を取り外します。アシュラムの暖かい交わりに受け入れられて、私たちは仮面を脱ぎすてて、見せかけの背後から出てきて、実際に私たちの真実なニード(必要)を分かち合う恵みを発見するのです。先ず最初に私たちは主の愛弟子ヤコブの忠告に耳を傾けましょう。「互に罪を告白し合い、また癒されるようにお互いのために祈りなさい」(ヤコブ5:16)
《午前》
10時 開心の時
11時 メッセージ
12時~1時 昼食、ファミリーアワー、諸報告
《午後》
1時15分 祈りの細胞(一分団10名以内)
(祈りについての理論や解説はせず、祈りそのものを体験するように注意すること)
2 時 さんびの時、自由献金
2時15分 聖書講義、あるいはメッセージ
3時 献身と祈り
3時15分 充満の時
4時 頌栄と祝祷
開心の時
この時間において、犯した罪を具体的に告白することは必要ありません。それらは、より深い場における欲求不満や争いの心の現象に過ぎないからです。むしろ私たちは誤った態度、憤り、疾妬、批評、心配、自己中心、赦せない性質、精神的な怠惰、物質主義、神と人に対する愛の欠如、規律の欠如、信頼の欠如、明け渡してない自我、などを告白するために喜んで心を開かなければなりません。
全ての人が告白したニードが何であろうとも、受け入れられたと感じるように導かれねばなりません。また誰も不適当に長々と話し、思い出にふけることがないよう注意すべきです。一同はこのことにも規律を守り、要点を語る必要があります。またおじけている人に対しては励ましの言を与えるべきです。「あなたは価値がないとか、あなたが言おうと思うことは重要ではないと感じているかも知れません。しかしながら、もし神があなたに何かを言ってほしいと望んでおられるなら、あなたが言うことは非常に大切なのです。」開心の時と同じく、積極的で大声の人々によって時間が専用されないように、各自の発言時間を制限して頂きたい。
この開心の時に入ると、私たちはみんな助けを必要とする人々である事が判ります。そしてこのことに目覚める時、神の愛が流れ込んできます。しかし、癒しが行われるのは私たちが告白するニード(必要)の深さによるのです。この時間に於いて犯した罪を具体的に告白する必要はありません。それらは、より深い場における欲求不満や争いの心の現象に過ぎないからです。むしろ私たちは誤った態度、憤り、嫉妬、批判、心配、自己中心、赦せない性質、精神的な怠惰、物質主義、神と人に対する 愛の欠如、明け渡していない自我、などを告白するために喜んで心を開かなければなりません。
全ての人が告白したニードが何であろうとも、受け入れられたと感じるように導かれねばなりません。また誰も不当に長々と話し、思い出に耽ることがないように注意すべきです。一同はこの事にも規律を守り、要点を語る必要があります。またおじけている人にたいしては励ましの言葉を与えるべきです。
「あなたは価値がないとか、あなたが言おう思うことは重要ではない」と感じているかもしれません。しかし、もし神が何かをいって欲しいと望んでおられるなら、あなたが言うことは非常に大切なのです。
その後黙祷のために充分な時間をとり、言うべき言葉を与えられるように神に祈るように促し、取るにたりない表面的なニードでなく、現在の真実なニードを言い現すように導かねばなりません。それからまず、最初にリーダー自身が自分のニード(必要)を言い現して開心の時に入りますと、他の人々も引き続いて開心することでしょう。
充満の時
開心と同じく、積極的で大声の人々によって、時間が専用されないように、各自の発言時間を制限してください。この時間はアシュラムとかリーダー達を賞賛する時ではなく、私たちの感謝の言葉をキリストの足の下に献げるための時であります。
一日アシュラムの祝福
この1日アシュラムは世界の多くの国々において霊的な恵みであることが立証されました。南米において1人の長老派の牧師は、世の中が彼に反対していることを感じながら、ある小さなメソジスト教会で催された1日アシュラムに出席しました。充満の時になって彼は、その日の前に自分の持っていた唯一の問題は、明け渡していなかった自己であったことが判かるようになり、その日に彼は一大変革を経験し、今は聖霊の喜びと熱情に充満されています。
同様の結果が南米やアジアの各地において、スタンレー・ジョーンズの指導されたアシュラムにおいて記録されています。1日アシュラムは多の人々にとって、彼らの生涯の最も重要な1日となることができます。
指導の手引
(1)アシュラムピラミッド
イエス・キリストはアシュラムのリーダーであり、出発点です。アシュラムはキリスト中心です。私たちは彼によってうごかされます。すべての教派のクリスチャンは彼のもとに集まることができます。未信者も自由に主の下に来る事ができる。私たちは教派的に集まっていないからです。
【 7 】 =全国的運動の推進組織をあらわします。
【12】=地区アシュラムの推進組織(委員会)です。120のために働きます。
【120】=地区アシュラムの家族(参加者)です。地区アシュラムの最高機関です。
【500】=アシュラムの賛同者(賛助会員)で、この運動のために祈り、働き、支持します。復活者キリストにであった人々の群れです。
【教会】=アシュラムは教会中心です。私たちは人々を教会から引出し、彼らの忠誠、愛 時間、才能を奪うものではありません。アシュラムは彼らをより良い人間となすことにより、より良い牧師、役員、教会員として、教会生活の中に浸透すことを願う運動です。(E.スタンレー・ジョ―ンズ)
【神の国】=私たちは主イエスと共に出発しますが、主イエスは神の国をもって出発されました。主にたいする忠誠は神の国にたいする忠誠を生み出すものです。アシュラム賛助会=地区アシュラムに対して年会費をもってこの運動を支持する人々です。この年会費は地区と連盟とに分納され、機関誌発行、諸経費にあてられます。
(2)地区アシュラム委員会
地区アシュラムの執行機関です。ファミリーから選出された12名をもって組織し地区アシュラムの日時、会場、プログラム、講師(助言者)等、約1年前に予告的印刷物を賛助会員、関係教会の人々に送ります。その後、祈祷グループの座長、讃美リーダー、立証者等を決めます。
◎委員は少なくとも2回以上の出席者から12名を選びます。
委員長、書記、会計、主事、祈祷グループ係り、連鎖祈祷委員等を互選します。
◎会計委員 地区アシュラムの会費の集金と保管、受取、支払伝票の整理、会員への領収書送付。会場での受付事務、名札、プログラム、歌集などの準備。会計報告。連盟分担金の送付等を行います。
◎書記委員 地区委員会会議記録、参加者名簿の作成、配布。通信事務。ファミリー・アワーの記録。アシュラム当日の受付補佐。祈祷グループの所属を参加者に知らせます。
◎連鎖祈祷委員 祈祷室の用意、期間中の全時間を1時間ごとに指名記入欄を造り全員に記入してもらいます。夕食後、朝食後に記入者を確認します。