横浜岡村アシュラムの紹介

横浜岡村教会牧師 安藤 脩

 私が横浜岡村教会に赴任するようになったきっかけは、アシュラムでありました。私は更生教会の牧師として奉仕していた時(1984/4~1990/3)から、アシュラムに関わってまいりました。横山義孝師が私に、アシュラムを教会作りの基においている横浜岡村教会で牧師を探しています。行ってみませんかと紹介下さいました。当時、教会は無牧になっていました。どのような信仰の流れの中にあるかは知らないままに、先ず1回、お見合いをし、親しみを感じました。そして、アシュラムを行っている教会なら、同じ思いでご奉仕できると信じ、赴任することを決心しました。

 横浜岡村教会の信仰の流れ

横浜岡村教会は1949年8月7日に「横浜福音医療宣教団根岸橋教会」として設立されました。この教会はエルンスト・ラング宣教師によって結ばれた3教会の1つです。ラング宣教師はチャイナ・インランド・ミッションに属するドイツ支部・リーベンゼラ・ミッションの宣教師です。中国への伝道が閉ざされたリーベンゼラの宣教師たちは南方への伝道の補給基地として、日本に拠点をおきました。ラング宣教師夫妻は横浜の菊名に1928年8月に着任しました。そして横浜菊名教会が生まれました。戦時中もドイツは同盟国だったので、国外追放とはならず、軽井沢に軟禁状態となりました。ご存知のとおり、戦時、治安維持法の成立により、日本のキリスト教会は小教派を守るためもあり、日本基督教団を設立しました。しかし戦後の治安維持法廃止と共に、戦前の外国宣教団の誘いにより、教団を出る教派が多くありました。といっても、全員一致で出たわけではありません。合同は神の御旨であると受け止めて残る人、戦前の宣教団と歩みを共にする人と2分された教派も多くあります。ラング宣教師は、同僚たちが同盟教団として出てゆく中で、横浜菊名教会の現状を考え、一人だけ日本基督教団に留まりました。そのため即日、背後の宣教団からの援助は打ち切られました。でもすべてのことをご存知の主は、米国EUBによって、ラング宣教師ご夫妻を支えて下さいました。

ラング宣教師と倉持芳雄牧師の出会いにより、1946年3月から医療伝道 「横浜福音医療宣教団」としての活動が始められました。これが清水ヶ丘教会の前身です。この清水ヶ丘教会の一信徒が「子どもへの伝道を示された」と証ししたところ、多くの兄姉が手伝いを申し出、倉持牧師の応援もあって、家庭集会と子ども会がスタートしました。当時、何の娯楽もない時代でしたので、子どもが大勢集まり、家に入りきれなくなりました。町内会館を借り、清水ヶ丘教会の青年たちの援助を得て根岸橋日曜学校が発足しました。子どもたちが毎週150名位出席していましたが、町内会から会館維持費の件で立ち退きを要求されました。倉持師に相談したところ、ラング宣教師と共に町内会側と話し合い、前金と毎月の家賃を支払うことで、5年間借用の契約が結ばれました。そして、倉持師の先輩で、栃木県真岡に退いていた梅沢幸太郎牧師を招聘し、横浜岡村教会の前身である横浜福音医療宣教団根岸橋教会が1949年に設立されたのでした。

梅沢幸太郎牧師が聖公会・月島教会の日曜学校の先生として奉仕していたころ、倉持芳雄牧師はその日曜学校の生徒でした。その後、梅沢師は献身し、バックストンの信仰の流れの関西聖書神学校で学び、日本基督教団の教師になったわけです。ですから横浜岡村教会には超教派的な信仰が流れております。ラング宣教師も同じく、教派を超えて、ただ聖書信仰に立ち、伝道するという点で、共通していました。

 横浜岡村教会とアシュラムの関係

 岡村アシュラムをスタートさせたのは、横浜岡村教会2代目の野澤満雄牧師でした。

 野澤牧師が横浜岡村教会に遣わされることになったのは、清水ヶ丘教会の倉持芳雄牧師の推薦によりました。倉持牧師と梅沢幸太郎牧師は、お二人とも戦時中、野澤牧師のお父様である野澤義雄牧師の牧会していた川崎宮本町教会の副牧師でありました。その教会は、日本基督教団成立以前はホーリネス系の日本宣教会に属する聖霊派の教会でした。

 野澤満雄牧師に倉持牧師から「横浜岡村教会の創立者である梅沢牧師の後任に」という話があった時、倉持牧師はこう言われたそうです。「梅沢先生は神秘的な信仰の持ち主で『導き』ということを言う方です」と。倉持牧師からそのように聞いた時、野澤牧師は「そのような牧師によって導かれてきた教会なら、きっと信徒も霊的な人々であろうから、自分自身も霊的な牧師にならなければならない。」と思ったそうです。そのために祈りから始めようと。

 1979年、野澤牧師は代務者として木曜日に行われていた祈祷会に、目黒原町教会から岡村に通われました。帰り道で、よく早園夫妻などと、途中まで同道した時、早園兄から榎本保郎牧師の話を聞きました。そしてその説教テープを借りることもあったそうです。そのテープでアシュラム運動について知ったそうです。そのような経緯から、野澤牧師は榎本牧師の著書を読み、大きな霊的感化を受けました。特に、榎本牧師の「新・旧約聖書1日1章」は、榎本牧師の静聴の実践例でもあったので、これを日毎に追体験するようにして、アシュラム精神を学ぶことが出来たのは幸いであったと言っています。

この様に、横浜岡村教会の創立者である梅沢牧師が、主の語りかけを聴くことを大切に考えていたのと、アシュラム運動の御ことばへの聴従ということが重なったのでした。それと、野澤牧師が「聖霊の賜物」を体験するという個人的には素晴らしい信仰体験を持ちました。しかしこれは全ての人が体験するとは限らず、その素晴らしさを言えば言うほど、教会員を悩ませるようなところがあったと野澤牧師は述懐しています。そのような問題を生じさせずに、皆が神様に近づく道をアシュラムに見出しました。

1982年、第1回岡村アシュラムが横山義孝牧師を助言者として開催されました。「当時の会員たちは喜んでこれに参加し、徹夜の祈祷会にも、誰も文句を言う人はなく、数名の兄姉は教会に泊りがけで祈りました。梅沢牧師時代からの信徒たちは、素直で信仰熱心な人たちであり、梅沢牧師を慕って、その霊的影響をしっかり受け継いでいました。だから、アシュラムは彼らの心情にピッタリな集会だったのです。高度成長期、世俗的な色の濃い時代を生きてきた比較的新しい信徒の方たちも、アシュラムによって信仰的に養われていきました。そのような中から、高橋俊雄兄や谷口浩三兄などのニューリーダーたちが現れました。」と野澤牧師は語っています。彼らは、関東アシュラムに参加し、その恵みを教会に持ち帰って、岡村アシュラムの形が出来ました。

 その後も引き続き、何回も助言者としてご奉仕いただいた横山義孝牧師との関係は、横山牧師のお父様・英男牧師と、野澤牧師のお父様・義雄牧師が同じ教会の出身であったことに起因します。それだけでなく、このお二人は渋谷にあった日本宣教会・桜ヶ丘教会の会田喜助牧師のもとで、机を並べて、修養生として訓練を受け、牧師となってゆかれました。野澤満雄牧師は、横山義孝牧師がアシュラムに関わっておられることを知り、助言者として来ていただくことになったのでした。

 岡村アシュラムの特徴

 安藤脩牧師が3代目牧師として赴任したのは1993年です。教会アシュラムを行っている教会と紹介されて赴任したのですから、信徒教育の中心にアシュラムを置きました。毎年継続されております。それと、スタンレー・ジョーンズ師が日本でスタートさせた訪問伝道(現・こころの友伝道)に1997年より参加し、伝道の中心活動としました。

2013年には第32回岡村アシュラムを、有馬歳弘牧師を迎えて開催。1週間の待望連鎖祈祷を行って心備えをし、7月13日(土)~14日(日)で行われました。関東アシュラムが前年、50周年を記念して作成した「関東アシュラム50年」のDVDを鑑賞し、関東アシュラムの50年の歩みのパネルを借り受けて展示するという特別な年でもありました。岡村アシュラムの特徴は・ファミリーアワーと労作の時でしょう。ファミリーアワーではこの年のキリスト教関係話題作の「聖書を読んだサムライたち」のDVD鑑賞と、安藤華舟氏(牧師夫人)がフランスで開催された日本の伝統文化を紹介するジャパン・エキスポに参加した状況を話し、恵みを分かち合いました。このような時宜にあった話題と、教会員・教会の問題と対策を話し合っています。労作の時は、多くのアシュラムでは行わなくなりましたが、イギリスのユーモアーある戴冠式の式文により、戴冠式を行い、パロ(パロ女王)の命に従って、清掃するのも心和むひと時です。

アシュラムで受けた恵み 

横浜岡村教会  早園 貞子

 第1回岡村アシュラムは、1982年6月27日(土)~28日(日)に、横山義孝牧師を助言者として開催しました。

 1週間前から24時間の連鎖祈祷で、始まりましたが、皆様が進んで祈祷表に名前を書いて祈りました。梅澤幸太郎牧師から、朝、目覚めて先ず、祈ることの素晴らしさを、良くお聞きしていましたが、なかなか実行できませんでした。しかし、1日1回、または2回、時間を決めて祈りのときを持てて、神様としっかり交わる素晴らしさを体験できました。

 横山牧師は、ヨハネ福音書2章を通し、水がぶどう酒に変えられる奇跡の恵みを語られ、開心へと導かれました。皆様の前でニードを告白するのは勇気のいることでした。

 はじめの集会で少し戸惑いを感じながら、プログラム通り、祈りの細胞の時は分団に分かれ、お互いに祈り合いました。

 夜9時で集会は終わり、数名の兄姉は教会に泊まり、徹夜祈祷を持ちました。教会近くのご夫妻は、夜中教会に来て祈られ、うっすら明るくなった時、すがすがしい気持ちで家路に着かれたそうです。

 28日(日)の静聴の時も多くの兄姉が出席、そして礼拝、最後の充満の時、会堂に集まった兄姉の顔は、喜びに輝いていました。「決められた時に祈ることの出来た嬉しさ、これからも続けたい。ニードのお答えは、はっきり頂けなかったが、これかからも求め続けます等、受けたお恵みを分かち合いました。最後に輪になって讃美で終わりました。(高橋園子姉証し参考)

 第24回アシュラムは、新会堂建築でしたが、礼拝のため借りていた所で開くことが出来ました。助言者は有馬歳弘牧師でした。最後の充満の時は、骨組みだけ出来上がった教会で行いました。最後に良く冷えた西瓜を頂いたのも楽しい思い出のひとつです。 第26回アシュラムは、助言者は安藤脩牧師、ゲストに新宿西教会の川村秀夫兄をお招きして開きました。このアシュラムで私が、祈りの細胞の座長を務めさせて頂いた時の恵みです。

 数日前から口内炎が出来、話すことに辛さを感じておりました。当日は早く教会に行き、先ず、安藤牧師に祈って頂きました。分団のとき、皆様に了解を得て、座長を無事、務めさせて頂きました。でも夜、床に入ってから、体全体が痛み、寝返りも出来ない有様でした。祈りました。心に平安が来ましたので、翌日は恐れず静聴から参加しました。相変わらず痛みがありましたが、不思議と気にならず、充満の時となりました。思わず真っ先に経過を話しました。神様は私に、平安の心を与えて下さり、恐れを取り除き、従うことの素晴らしさを教えて下さいました。恵みの体験でした。

 アシュラムは横浜岡村教会員にとって、大事な集会です。なおこれからも、新しい方も加わって、お互い霊的に成長できるよう、祈ってまいります。